江戸時代は中山道最大の宿場町として栄えましたが、なぜ歴史と文学の信濃追分と言われるようになったのか探ってみようと思いますので簡単な経緯として記載してみます。
地域の要望などもあり、東大の高等文官試験の学生などを収容するため1909年(明治42年)夏季臨時停車場として信濃追分駅が誕生しました。
その後は学生が来るようになり、夏目漱石や島崎藤村、若山牧水、田山花袋、大町桂月、菊池寛などのその方面の方々が皆追分に訪れるようになりました。追分は学生村となり民家の部屋を貸してだんだんと拡張していきました。
一方別荘はというと、大正の初めごろ追分の始めての別荘として高木子爵邸が建てられました。別荘地としての追分はここを始まりとしてしだいに増えていくことになりました。その後東京女子大、青山学院、早稲田などの学生寮施設も増えていきました。
そして上記のように関わった方々がしだいにこの追分の地を好み、歌や小説などの作品を作っていくことになりました。合わせて別荘もしだいに増えていき現在にいたります。このようなこともあり、歴史と文学の信濃追分と呼ばれていくことになりました。
2007年07月02日
歴史と文学、別荘地としての信濃追分。
posted by toushinfudousan at 10:26| 軽井沢[karuizawa]